森のなかの標本室

不思議な標本を作るアートユニット「飴色団栗研究室」にまつわるちょっとしたおはなし。毎週金曜日夜9時ごろ更新。

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note( 飴色団栗研究室|note )との統合を検討中のため、ブログの更新を休止しています。またこのブログは予告なく削除される場合がありますので、読みたい記事がある方はお早めにご覧ください。

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今週読んだ本:『これだけで碁が分かる 入門から初段まで』石倉昇


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先週の将棋の本と比べると読み物としての面白さはもの足りないですが、図が豊富で文章も分かりやすいと思います。コツを掴むには時間がかかるかもしれませんが、ルール自体はシンプルで、前半をサラッと読んだらすぐにアプリで遊び始められそうな感じでした。

重さ

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人間は重いものほど価値が高いように感じる、という話をどこかで聞いたことがある。確かに、思い当たる節は多い。

 

ペラペラの封筒より分厚い紙箱。紙箱より木箱。大きな木箱より金属の小箱。樹脂よりガラス。アルミより鉄。軽いキャベツより重いキャベツ……は少し違うか。

 

どちらか好きな方を差し上げよう、と言われたとき、つい重い方を手に取ってしまうことはないだろうか。同じ値段なら、重い方がお得な気はしないだろうか。

 

しかし、それで本当に良いのだろうか。紙箱と木箱、実は案外材料費が変わらなかったりする。樹脂とガラス、樹脂の方が手間も技術も必要な場合だってある。

 

このブログを以前からご覧の方はもうお分かりだろうが、これは「重いものも案外高級じゃない」という話ではない。

 

あなたが重いものを価値が高く感じるなら、その感覚は大切にしてほしい。それは素材の特性に対する愛であり、決して惑わされていることにはならないと思う。

 

しかし、あなたが軽いものに価値を感じられないなら、もう一度先入観を取り払って、その素材をよく見つめなおしてほしい。あなたは、脳の感じる「重い=高級」という図式に操られてはいないだろうか。軽いというのは、それだけ繊細であるということでもある。透けるように薄い紙の儚い美しさは、見逃してしまうにはもったいない。

 

そうやって、先入観で価値が高まるものは存分にその先入観を利用する。先入観で価値が下がるものは、知識を得ることで自分の目で見つめなおし、価値を高める。どちらか一方でなく、両方を使い分けることで、人はより幸せになれる気がする。

 

 

 

今週読んだ本:『みんなの将棋入門』羽生善治


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将棋のルールを全く知らなかったので、基本くらいは知りたいと思って読んでみました。表紙がちょっとインパクト強い感じですが、内容はとても良かったと思います。フルカラーで図が大きく、映像でも情報が入ってくるので理解しやすいです。子供が読むことも想定して書いてありますが、文章は大変知的で、大人が読んでも満足できると思います。百均のでもいいので、目の前に将棋盤を置いて実際に駒を動かしながら読んだ方が楽しそうです。

 

標本なのか作品なのか

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生成色の厚紙に、紙のテープでとめる。

厚すぎるものは、糸で縫い付ける。

壊れやすいこれは、採集したその場で紙箱に接着剤で固定する。

ラベルは右下、紙の端から1センチ。

表記は上から順番に、タイトル、科名、学名、和名……

 

標本というのは、研究所や博物館ごとに少しずつ差はあれど、そうしたルールのもとに作られる。

そうすることで管理をより容易にし、また経験の浅い者でも精度の高い仕事ができるようになる。

 

しかし、飴色団栗研究室の標本は、そういったルールに従わないものも多い。白系統の中性紙ではなく茶色いパラフィン紙を使ったりするし、板に直接接着したりもする。花は押し花にせず、独自の不可解な技術で立体のまま液浸にもせず瓶詰めにしたりする。

 

それはなぜか。

 

それは、研究室の母体である樫研究所が変なのもあるが、飴色団栗研究室が自然科学の研究室ではなく、芸術の研究室であるというところが大きい。

 

つまり飴色団栗研究室の研究員は、「樫研究所」の一員としてへんてこな植物や遺跡を研究しながら、それとは別に「飴色団栗研究室」の名で、標本を芸術として発表する手段を研究しているのである。大学で例えるなら、理学部の中に美術系のサークルがあるという感じである。芸術であるが故に、敢えて合理的でない形にしてみたりもするのだ。

 

話は少しずれるが、飴色団栗研究室の使う「標本」「作品」という表現はかなり紛らわしい。箱や瓶に収められた植物そのものは標本であって作品ではないが、標本箱全体としては芸術作品なのである。

 

さらに紛らわしく例えると、「標本にされた母岩草」は作品ではないが、「母岩草の標本」は作品なのである。

 

さて、訳が分からなくなってきただろうか。それで構わない。研究室の標本を見て、何かひとつでもその造形を気に入ってもらえれば、それで良いのである。

 

 

今週読んだ本:『マインド・クァンチャ』森博嗣


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先日読んだ『ヴォイド・シェイパ』シリーズの最終巻です。侍ものなので人が斬られるシーンも多いのですが何故か血生臭くなく、主人公の静かな思考を追っていると癒されます。それでいて、先が知りたくて目が追いつく前にページを捲ってしまうようなわくわく感もある、不思議な小説でした。

粒飴

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粒飴、英名をCantiny という。

飴団栗と近い種で、しかし飴団栗よりもずっと小さい、小指の爪の先ほどの大きさの実がなる。

 

現在この粒飴の木は「森」に一本しか発見されていない。非常に珍しいように思えるが、実は飴団栗の仲間にはこのようなものが多い。実の形状、帽子の形、葉の色など様々なのである。その大半が纏めて「飴団栗」と呼ばれてしまっているために、分類を見直している途中である。

 

また春先に発見された、樫の木の仲間にごく稀に実る「琥珀果」との関連性も分かってきている。今まで我々が研究してきた飴団栗は特別な「森」にしか生えないものと思われていたが、自宅の窓から見えるような身近な森にも存在する可能性が見出されたのだ。

 

しかしながら、特別な森とは何だろうか。以前も似たようなことを述べたが、特別とは、見慣れていないということではないだろうか。我々は未知のものにロマンを感じるが、その未知とは人類にとっての未知ではなく、自分にとっての未知に感じるものではないだろうか。

 

即ち、自分にとっては見慣れたものでも、他者にとってはロマンあふれる未知であるかもしれない。自分にとっては身近な森でも、誰かにとっては見たことのない美しい森であるかもしれない。巨木の森で暮らす人々にとって、きっと日本の森はとても小さく可愛らしい木々が生い茂る、妖精の作った森のように思えるだろう。鮮やかな花や果実ばかりの南の森で育った人は、庭の草花の繊細な造形と色合いに感嘆するだろう。

 

「身近な場所」に面白いもの、不思議なものなどないというのは先入観に過ぎない。そう思えば、毎日目にする「つまらない」ものにも、ロマンを見出せるのではないだろうか。

 

粒飴も飴団栗も風変わりで可愛らしい植物に思えるが、それは決してタンポポやドングリやリンゴよりも魅力的だということではないのだ。

 

先週の記事と同じである。心をすっきりと空っぽにして、目の前にある自然に、あなたにとっての本当の美しさを見出してほしい。

 

お分かりだろうと思うが、不思議に見えるものも見慣れないだけで実際は大したことない、という話ではない。考え方ひとつで、身の回りの全てが新鮮で美しく思える、そういう話である。初めて見たものを面白がって拾い集めるのは勿論大切なことだが、例えば見慣れたリンゴの種の存在にも感動し、大切に引き出しに仕舞えるような心があれば、きっと世の中は今の何倍にも楽しくなるだろう。

 

今週読んだ本:『日本の神様 解剖図鑑』平藤喜久子


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日本の主要な神様について、一人ひとりイラスト付きで解説されています。絵が多いので文字数は少なめですが、文章がとても綺麗にまとめられているので、情報量は決して少なくありません。絵柄も堅苦しくなく、かといってデフォルメも強くなく、品の良い感じで手に取りやすいです。帯には「最強の開運を!」とか書いてありますが、神道を信仰していない私が読んでも雑学としてとても楽しめました。 この「解剖図鑑」シリーズは他にも種類があるようなので、今度探してみようと思います。

「沼底の碧」の鑑定方法

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「沼底の碧」の標本

これは、青い沼の碧色が長い時をかけて堆積し、宝石になったものです。

 

我々は、自ら鉱物の採集を行うことは滅多にありません。この標本もお店で購入したものです。しかし、勿論これは「沼底の碧」という名前で販売されていたものではありません。

 

今回の記事では、「沼底の碧」のようなものをどのようにして探し出すのか、その方法をごくごく簡単にお教えします。こういったものを手に入れたい方は、うちの研究室から買ってくださっても勿論結構ですが、自分で見つけ出すことが十分に可能です。

 

手順は以下の通りです。

1 鉱物を販売している場に赴く

2 心をすっきりと空っぽにする

3 他者によって分類された名前を意識せず、自分の目でゆっくりと一つ一つの石を観察する。

4 これぞと、あなたの心に響く石に出会ったら購入する

5 持ち帰り、その存在を明確に表現した、相応しい名前をじっくり検討する。

6 丁度良い大きさの箱に収め、ラベルを作る

 

以上です。自分にとってその石がどういう存在であるか、本質を見抜くには慣れも必要ですが、どなたにも、決して不可能ではありません。

 

水晶、蛍石サファイア、ひすい、人間は様々なものを分類し名前をつけます。存在を定義づけます。それは学問、あるいは集団の中で重要で必要なものですが、あなた個人の中でも必要であるとは限りません。あなたと、石と、一対一の世界では、その石はあなただけの価値観で分類された、あなただけの存在であって良いのです。

 

しかし、あなたが既にラベルがついている石を手に入れたなら、できるだけそのラベルは保存しておきましょう。

あなたの出身地、身長や体重、学校の成績などの情報によってあなたの存在価値が変動することはありませんが、何かの拍子にそういうデータが役に立つ場面もあります。持っておくことが苦痛でなければ、保存しておく方が得策です。

 

さて、これよりもっと具体的で詳しい鑑定方法は、またいつかどこかで纏めることにいたします。

しかし、勘の良い方ならばここに挙げた情報だけで問題なく標本を探すことができるでしょう。そして、それが鉱物だけに限らないことを悟るでしょう。ぜひ、あなたの身の回りの存在を、新たな視点で眺めてみてください。

 

 

今週読んだ本:『名作あらすじ事典─西洋文学編─』青木和夫 


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西洋文学200作品のあらすじが書かれた事典です。一般常識として知っておきたい知識を手っ取り早く仕入れることができますし、もちろん読みたい本も探せます。全部読まずとも、パラパラとめくって眺めるだけで楽しいです。

今後の標本の販売について

※普段のブログの内容とは無関係の記事です。
※通常の記事はいつも通り金曜夜9時に更新いたします。

 

この度、飴色団栗研究室の標本につきまして、私共がSNS等において標本が架空であるとはっきり注意書きをしない発言をいたしますと、プロフィールへの記載、また販促目的のツイートであるかとは関わりなく、全ての販売が詐欺になるとのご指摘を受けました。

 

我々はこれを受けまして、今後の雑貨店への委託販売の一切を取りやめることにいたしました。

 

決断に至った理由といたしましては以下の通りです。

・委託店様にご迷惑をおかけしないため

・どれだけ注意深く活動していても、活動理念を変えない限り同様の行き違いは起こりうると予測されるため。

・活動理念と販売を天秤にかけた際、活動理念を守ることに大きく傾くため

 

今後の標本の販売方法といたしましては、私共のような面倒なアーティストの取り扱いのプロであるギャラリー様と協力し、よくよく相談の上で展示販売するという方向性にしたいと思います。

 

誤解なきように申し上げておきますと、我々は自ら進んで架空であると申し上げないスタンスで活動しておりますので、直接の販売は基本的に行わず、我々の代わりに事実をお伝えしてくださる場所での委託販売のみとしておりました。また委託店様、ギャラリー様は販売において通販では注意書き、対面での販売では口頭での確認等、細心の注意を払って販売してくださっておりました。今回のご意見は、それを踏まえた上での我々に対してのご意見であり、委託店様等に責任はないものと考えております。

 

また、同じ方から以下のようなご意見もいただきました。

・自然科学に対する誤解を招きかねない表現方法は害悪であり、フィクションであることを前提とした活動方針に変えるべきだ。

・自分はこのようなものをアートであるとは認めない。

・体調不良を明らかにしたことで同情票が多く集まり、自分たちのようなまともな人間が悪者であるように扱われ、遠ざけられている。発言を撤回すべきである。

 

一つ目、二つ目に関しましては、活動方針を曲げることはできませんので、先日の記事の繰り返しになりますがSNSでの情報を制限することで対処させていただきます。これにより、情報の一部が一人歩きしご不快な思いをする方を生んでしまうことは防げるかと存じます。また、ブログやWebサイトのプロフィールページには、ステートメントに反しないギリギリの範囲で注意書きを付け加えております。

 

三つ目に関しましては、いただいたお言葉に対して「まともである」「まともでない」と分類することになりますので、肯定も謝罪もできません。こちらに関しては、今までのツイート全てを削除することでお答えとさせていただきます。

 

この期に及んで「架空である」と大々的に発言しないスタンスを貫くことに、ご不快に思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかしながら、この点はどうしても譲れない一線ですので、「世の中には碌でもない人もいるもんだ」というくらいでご容認いただけますと幸いです。

 

尚、今回の記事は議論を呼びやすい内容ではございますが、我々はこのご意見を受け止めるべきと判断しております。またお送りいただいた方以外にも同様のお考えをお持ちの方がいらっしゃる可能性を考え、この場でもこのように発表しております。真摯なご指摘をくださった方への行き過ぎた批判等はご遠慮いただきますようお願い申し上げます。 

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たからもの

あなたにとって、宝物とはどのような存在だろうか。

私にとっての宝物は、形と物語の間にある。

見た目が美しいというのは、大切な要素である。綺麗なものはそれだけで幸せを生む。ずっと大切にしたくなる。それは理屈ではなく、ただそうしたいと思わせる力を持っている。

それと同じくらい、物語は大切である。大切な人にもらった、拾った時に不思議な体験をした、そんな大したことでなくとも、宝物それぞれ違った物語を持っている。

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例えばこれは、美しい透明の石であるという見かけの他に、氷の化石であるという物語を持っている。標本のラベルは、研究室が与える物語だ。ここに氷の化石と貼ることで、それは透明な石から意味のある透明な石へと変わるのだ。

 

しかし、物語というのは、与えられたものでなくても良い。例えばあなたが氷の化石を手に入れたとして、それを氷の化石と思う必要性はどこにもない。あなたが星のかけらと思うならば、その物語を与えられた石は、その瞬間に星のかけらへと変わるのだ。

 

たからものという存在において、硬度だとか化学式だとか、結晶構造だとか、物理的な事実がどうであるかということは真理ではない。同じ石でも、見る人によって存在の本質が変わる。そういうものであって良いと私は思う。

 

精神の世界においては、全てが自由だ。いくつもの真実がある。サンタクロースはいてもいなくてもいいし、透明な石は、水晶でも、氷の化石でも、星のかけらでも、涙の結晶でも、何にでもなれる。その全てが真実として大切にされて良いのだ。

 

空想と現実の区別がつかなくなることは時に危険だが、それは「つかない」ことが危険なのであって、「つけない」ことは、内容をよく選べばむしろ人生を豊かに彩る。

 

あなたは、引き出しの奥に星のかけらを持っているだろうか。持っていないならば、そっと身の回りに目を向けてほしい。あなたの宝物にふさわしい美しい一片が、きっと見つかることだろう。

 

 

今週読んだ本:『千年の命 巨樹・巨木を巡る』高橋 弘 

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日本の主要な巨樹・巨木を写真付きで紹介する本です。

こんな木があるんだと眺めるのも楽しいですが、旅行の計画を立てるのにも使えそうです。写真も美しいものが多く、それぞれの木についてのエピソードも載っていて、満足の一冊でした。