森のなかの標本室

不思議な標本を作るアートユニット「飴色団栗研究室」にまつわるちょっとしたおはなし。毎週金曜日夜9時ごろ更新。

今後のツイッターおよびSNSの利用について

※普段のブログの内容とは無関係の記事です。
※通常の記事はいつも通り金曜夜9時に更新いたします。

 

(はじめに、今回の顛末について簡単にご説明いたします)

このシラカシ琥珀果、通称飴色団栗の生態に関するツイートが大きく拡散されました。

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そのツイートに関して、我々は活動理念に基づき、はっきりと「作り物です」と申し上げませんでした。それに対しリプライや引用その他にて、あくまで少数ではございますが、その態度が「良くない」とのご指摘をいただきました。我々はいただいたご意見ついて検討を始めておりましたが、結論が出る前に、真摯なご意見へ便乗した悪質なメッセージが届き、検討が不可能な体調に陥ったため一時的に逃避し、ツイッターの使用を休止しておりました。

 

以上が今回の大まかな流れです。

 

本題に入ります前に、この件で大変多くの方にあたたかい共感と励ましのお言葉をいただきましたこと、誠にありがとうございます。このように見守ってくださる皆様の存在は、作家として本当に宝物です。まだツイッターを再開できる状態ではなく、お一人お一人への返信が難しいため、この場での御礼とさせていただきます。今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます。

 

以下、今回我々の間で今後の方針について検討いたしました内容及び結論です。

 

目次

1 活動内容について

2 今までの対応について

3 今後の方針について

 

 

1 活動内容について

まず前提条件として、我々は鑑賞者にリアルな空想体験をしてもらうためのアートユニットではありませんそういう活動をされている方はたくさんいらっしゃいますし、それも勿論素敵ですが、その良し悪しと関係なく、我々はそれとは違う活動をしています。

 

我々のWebサイトには、ステートメントというものが掲載されています。アーティスト・ステートメントと呼ぶこともありますが、これは芸術家の活動の根幹となる理念を示しています。全ての活動はこの文に基づき、ここから外れたことは決して行わない。そういう大切な存在です。

 

さて、我々のステートメントを要約しますと、このようになります

・我々の芸術家としての使命は、世界のどこかにきっとあるものを標本として再現することである。

・普通は作ったものを標本と呼ばないが、あえて作品を標本と呼ぶ(標本として扱う)ことで、夢を現実にする。

 

どういうことかと申しますと、

我々は、我々自身が自らの作品を「標本」として扱う、つまり実在する現実であると扱うことで、夢を現実として位置付ける。そういう活動をしています。もっと詳しく申し上げますと、我々は標本を創っているのではなく、創った植物を標本にしているのです。この辺りの解釈は英語版の方が分かりやすいかと思います。

 

極論を申しますと、我々のステートメントにおいて見る人がどう感じるかは関わりがありません。我々自身がその態度を貫くことで夢が現実として位置付けられる。その成果物から何か感じ取ってもらえると嬉しい。そのようになっています。

 

これはおそらく、皆様が考えていた順序と逆でしょう。心情として「私の中では本物だから言いたくない」ではなく、そもそも本物として扱うこと自体が活動の根幹である。そこがわかりにくいからこそ、「芸術活動」が「嘘」に見えてしまうのです。

 

 

2 今までの対応について

さて、上述したように我々は自身が標本を標本として取り扱うことをとても大切にしていますが、それが時に社会と相容れない考え方であることは理解しておりました。『星の王子さま』のように、自分で描いた羊の絵を本物の羊として大切にすることが許される世界は、そうそうないのです。ですから今までは、不特定多数の方がご覧になるツイッターを使うにあたって、以下のような対応を行っておりました。

・プロフィールに「現代アートユニットである」と記す

・プロフィールに「自分の作品を標本と呼んでいる」と記す(これは英語で書いてあります)

・よくよく読めば創作物であることに気づくようなツイートを固定する

・具体的な質問(本物ですか?等)を受けた際には遠回しに、創作物であることを示唆する回答を行う

・「作り物である」と断定する行為を否定することで、間接的に気づきを促す

※ただし、「これはどういう生態をしているのか」「こんなものがあるなんて素敵」「探しに行ってみます」等のご意見は、普段から我々の気持ちを汲んでそのように「乗って」くださる方が多いので、はじめての方でも念のため肯定も否定もしない返信をしていました。

 

しかしこれは本当に最大限の譲歩で、身を切られるように辛く、加えて我々の活動に深く共感してくださる方の期待を裏切る行為でもあります。何より、ステートメントの根幹が完全に覆されているのです。

 

 

3 今後の方針について

その上で今回、新たにご指摘をいただきました。これでは足りないという方もいらっしゃるのです。我々は常に、全てのツイートにおいて標本が創作物であると主張し続けることを望まれている。そこで我々はどうするべきか。

 

我々は今後のツイッターを含むSNSの利用について検討し、以下のように決断いたしました

 

 1)今後、プロフィールとステートメントを除き、創作物であることを示唆する言葉は一切使わない。

 2)基本的に返信を行わない。

 3)投稿内容を大きく削減し、生態や学名等「紛らわしい」内容は直接投稿しない(例:写真とタイトルのみ)。

 4)簡単な図鑑をWebサイトに作成し(作成済)、そこへのリンクを投稿する。

 5)分類や学名、学術論文などを含むより詳しく紛らわしい内容はnote等を用いた有料コンテンツとする。

 

簡単にまとめますと、社会のなかで上手くやるための大人の対応を廃止し、その代わりに拡散されやすいツールでの情報を削減する、という結論に至りました。

 

今まで通りで良い、気にすることはないと言ってくださる方が本当にたくさんいらっしゃることは存じております。皆様のあたたかいお言葉は本当に嬉しく、感謝しております。またこのような活動は表現の自由によって守られており、本来こういう場面で求められるのは表現の自粛ではなく、学校教育等による個々の情報リテラシー向上であるという考えも持ち合わせております。しかしながら、現状を鑑みてご不快に思う方が一人でもいらっしゃるならば……という殊勝な理由は半分くらいで、単純に苦情を無視できる強い心を持ち合わせておりませんので、このように対策させていただきます。

 

※尚、当たり前のことですが、販売の際は別途注意書き等を記載しております。またライターの方やギャラリー関係者様、委託店舗様、研究者の方などお仕事に関連したお問い合わせ、また健康上の問題等情報が必要と思われるお問い合わせには、物理的な事実をそのままお伝えいたしておりますので、ご安心くださいませ。

 

まだツイッターを見るとあちこち震えたり痛くなったりしますので、休暇はもうしばらく継続させていただきます。この記事もブログの投稿機能を使ってツイートしています。次のイベントの告知までには再開したいと思っております。

 

また、その間ブログ、インスタグラム等その他全ての活動は継続いたします。Webサイトの問い合わせ欄も解放しておりますので、ご用の際はツイッター以外の手段でご連絡ください。

 

我儘なアートユニットではございますが、今後も楽しくご覧いただけましたら幸いです。

 

 

 

おすすめの本:『鼻行類』ハラルト・シュテンプケ


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我々の活動の方針がお気に召した方がいらっしゃいましたら、ぜひこの『鼻行類』をご一読ください。

最悪に情緒のない言い方をすれば架空の学術論文ですが、その他の類似した作品とは違い、あとがき等にも一切パロディであることを示す言葉がありません。そしてあまりの出来の良さに信じる人が続出し、ついには学会まで巻き込む大騒ぎになった本でもあります。ドイツの博物館には再現された剥製まであるそうです。明らかにされた鼻行類の生態は大変奇妙で面白く、時に愛らしく、魅力的です。内容は専門的であるためかなり読みにくいですが、しかしそこが良いのです。

本を書いています

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標本の作り方をまとめた本を作っています。

といっても出版ではなくて、自分で印刷して自分で販売するやつです。

 

植物を採集すること自体は簡単ですが、少しだけ本格的な知識を仕入れて出かけると、その楽しさと満足感は何倍にも増します。

 

公園で拾ったドングリに産地や日付、採集者のサインを書いたラベルを作る。いつも花だけ摘んで押し花にしていたスミレを、根から丁寧に掘り起こして作ってみる。掘り起こした花は、愛用の野冊(やさつ:植物を挟んでおくもの。新聞紙とベニヤ板で作れる)に挟む。ちょっとした知識と手間で、もう立派な研究者です。

 

そういう知識がまとめて手に入る、挿絵が豊富でデザインも美しい本を作れたらいいなと思い、半分は自分のために情報をまとめています。

画像は今描いている挿絵です。こういう絵をたくさん載せていこうと思います。

完成したら、ぜひ冒険のお供に使ってくださいね。

 

 

今週読んだ本:『ヴォイド・シェイパ森博嗣 

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図書館に行って、ふと目に止まった背表紙を引き抜いたら森博嗣さんだったので、外れはないだろうと思って中も見ずに借りてきた本です。この画像は文庫版ですが、ハードカバー版の表紙も綺麗ですよ。──最強の剣士に育てられた世間知らずの青年が、師の死を期に山を下り、一振りの刀を背に人里を旅する──という、少年漫画でも通じそうなシチュエーションながら、文体は透明感があって美しく、主人公の思考も哲学的というギャップが魅力的でした。続きも読んでみようと思います。

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今回採集に訪れたのは、遠くに佐渡島が見える新潟の海である。海岸へ降りると、まずは手頃な棒を拾う。採集において、棒は重要である。得体の知れないものをつついたり、砂の中から目当てのものを掘り出したり、振り回して遊んだりする。山ならば杖にしても良い。気分を高めるための必需品である。今回は枝ぶりも気に入ったものが手に入った。大抵はその場に置いて帰るが、これは持ち帰っても良いかも知れない。

 

海の日差しは、5月でもとても眩しい。サングラスを持ってくるんだったと思ったが、仕方がない。目を細めて砂浜をよく観察する。

 

流木、丸くなった石、貝殻の破片、発泡スチロール、空き瓶、何かの種、木の皮を丸めたようなもの、海藻。その中から良さそうなものを拾っては、大量に持ってきたビニール袋に詰めていく。この種、種花にとても似ているな。

 

木の皮を丸めたものというのは、これである。

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後から調べたところによると、白樺の皮で作った漁業用の浮きらしい。ロシアとか中国とか、そのあたりから流れてきているようだ。標本とは関係ないが、面白いので拾って帰る。

 

海岸で拾ったものは湿っているので、特に流木の類はある程度拾ったところで乾いたところに並べて、休憩と選別も兼ねて少し風に当てる。

 

それをまたビニール袋に詰めなおして持ち帰る。鞄が濡れるのも嫌なので大抵はそうしてしまうが、今回ひとつだけ、湿気を逃がさないビニールではなく紙に包んで慎重に持ち帰ったものがある。

 

本当はすぐにでも自慢したいところだが、その正体はもう少し研究が進むまで秘密にさせてほしい。

 

 

今週読んだ本:『海と毒薬』遠藤周作


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過去にあった事件を小説にしたもので、映画化もしています。本棚にあるのに読んだことがなかったので手に取ったのですが、手術の描写があまりにも恐ろしく、恐怖と吐き気で頭がいっぱいになって、作者の表現したかったこと、投げかけられている問題、何も読み取れませんでした。作品としてはすごく良いものだと思うので、勿体無いことをしました。

猫の秘密基地

先日ついに、猫の秘密基地を発見した。

 

研究室の猫は大抵、私か右の研究員の後ろをついて回っているのだが、時折姿が見えなくなることがある。猫の寝床は家中のあちこちにあるが、そのどれを覗いても見当たらないのだ。

そういう時に隠れている(?)場所を、先日ついに発見した。

二度確認して、いないと判断した場所であったが、試しに呼んでみると返事がある。

驚いて声の方へ目を向けると、こんなところに!という場所から姿を現したのだ。

 

果たしてその場所かどこであったのかは、猫の大切な秘密基地なので内緒にさせてほしい。

 

秘密基地とは、なにも人のこない林の奥のような場所でなくても良いのかもしれない。
人の目がある場所であっても、その死角を上手く利用すれば良い。

そう思えば、少し難易度の高いように思える秘密基地の製作も、少し身近に感じられるかもしれない。覚えておこう。

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今週読んだ本:『鉱物 人と文化をめぐる物語』堀 秀道  

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堀先生は学者さんなのに文章がとても綺麗で、読み物としてもかなり良かったです。石好きはもちろん、文化や歴史に興味のある方も読んでみると面白いと思います。ある程度鉱物の基礎知識があるとより楽しめます。

 

ブログに今週読んだ本のコーナーを作ると、忙しくても読書ができるのではないかと思って始めてみました。三日坊主体質なので怪しいですが、できるだけ続けてみます。

家宝にします

「家宝にいたします」

 

とっても素敵なものを買ったり貰ったりした時によく使う言葉であるが、なんとも「奥深くに仕舞い込んで使わない」というイメージが付随する。

 

例えばそれが茶碗や皿であったなら。工芸的に見れば「もったいなくて使えない」という選択肢は非常にもったいないもので、またそれを作った職人の意にも反することが多い。

 

なぜなら茶碗や皿というのは使うためのもので、つまり手にとって口を付けて茶を飲むこと、刺身や何かを盛り付けて食卓に並べることで初めてその作品は完成するのである。

 

工芸家が作るのは茶碗や皿ではなく、使用者の生活空間なのだと言い換えても良い。大体において職人というのは「皿を購入した人の幸せ」ではなく「この皿で食事をした人の幸せ」を考えてものを作る。この皿に盛ったおかずは他のどんな皿に盛るより輝いて見えるだろう。私の茶碗で持て成されれば、自分が特別な人間のように思えるだろう。

 

それを「もったいなくて使えない」としてしまうのは、なんとも筋違いというかなんというか、何気ない日々を特別な日々にするチャンスを失っていると言えるのである。

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ただ、それはあくまでも工芸的な見方をした場合である。私個人としては「仕舞い込んで滅多に出てこない」が嫌いではない。むしろ好き、いや大好きかもしれない。

 

世の中に「使わないともったいない」「使えないならいらない」という堅実だがどこか味気ない価値観が蔓延している中で、「使えるのに使わない」という選択をすることの、何と特別で贅沢なことか。それは本来の用途を封じられ、持ち主によって「宝物」という用途を与えられたのだ。家宝を家宝と定めるのは大体大人であろうから、多くの大人にそういう行動をとらせるというそれは、とても価値あるものであることを証明しているとも言えよう。

 

子供の頃は、拾った木の実であるとか小石であるとかガラスのかけらであるとか、そういうものを誰もが宝物にできた。そこに使えるか使えないかなんて全く関係がなかった。

 

ただ、多くの大人はなぜかそれができない。ガラクタは処分し、使えないものは購入を諦め、道端に落ちているものは拾わない。そういう人間になってしまった者たちに、用途があるにも関わらず、使わずにしまいこませることに成功するとは。故に、私は「使わない家宝」に惜しみない賛辞を贈りたいのである。

タンポポ

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タンポポ、という名前を考えた人は天才だと常々思っている。春の日差しを花にしたらこんな風になるだろうというようなこの黄色い花に、これほどふさわしい響きの名前が他にあるだろうか。

 

タンポポは綿毛もまた素晴らしい。これほど儚くて丸いふわふわを私は他に知らない。このふわふわを崩さないように瓶や何かに入れて保存しておきたいと何度も思ったが、いや、これは長く伸ばした茎の先で風に揺れているからこそこんなにも美しいのだと、その度に思い直している。

 

私には、毎年楽しみにしているタンポポ畑が三箇所ほどある。写真はその一つで、日当たりも風通しも良い素晴らしい場所である。

 

連休は都会に遊びに行くのも良いが、タンポポをゆっくりと愛でるのもまた良いかもしれない。そういうこともまた、時間と気持ちに余裕のあるときにしたできないことである。

 

「へんなもの」

世の中には、都合よくへんなものが集まっている場所というのが時々ある。

天敵がいない小さな島の生き物が野生とは思えないくらいのんびりしていたり、長く閉ざされていた洞窟に巨大な結晶が育っていたり、そういうものの周りにあるものは、やっぱり少し変わっていたりする。

 

「森」もそのひとつである。

我々は敬意を込めてその場所をカギカッコをつけて「森」と呼ぶが、「世界の奥の森」とか「近くて遠い森」とか「七つの星の森」とか呼ぶ人もいる。

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へんなものが育つのにちょうど良い環境をしているために数多く集まっているが、そこは決して異世界ではない。ただ、都合よくへんなものが集まっているだけなのだ。

では、「へんなもの」とはなんだろうか。いや、「この世にへんなものなんてない」という話がしたいわけではない。へんなものは、人によって違うのである。

 

たとえば「タビビトノキ」という植物がある。ご存知ない方は検索してみるといい。木も、花も、実も、私にしてみれば相当変である。ファンタジー映画の背景に生えているやつにしか見えない。だが、その地で生まれ育った人にとっては見慣れたもので、その人にとってはきっと、日本の桜の方が幻想的で不思議な植物なのだ。妖精の作った木だと思うかもしれない。

 

そうやって視点を変えて、いろいろなものを見て欲しい。

「私がこれを今初めて見たとしたら、美しいと思うだろうか」道端の花をそう思って観察して欲しい。

 

我々は自らが特別なものと思ったものを研究し、標本にしている。「へんなもの」が特別面白いのは間違いない。しかしそれと同時に、自分にとって「へんでない」「当たり前」のものも、見方を変えればまた特別になりうるのだと、気づいて欲しいのだ。