森のなかの標本室

不思議な標本を作るアートユニット「飴色団栗研究室」にまつわるちょっとしたおはなし。毎週金曜日夜9時ごろ更新。

家宝にします

「家宝にいたします」

 

とっても素敵なものを買ったり貰ったりした時によく使う言葉であるが、なんとも「奥深くに仕舞い込んで使わない」というイメージが付随する。

 

例えばそれが茶碗や皿であったなら。工芸的に見れば「もったいなくて使えない」という選択肢は非常にもったいないもので、またそれを作った職人の意にも反することが多い。

 

なぜなら茶碗や皿というのは使うためのもので、つまり手にとって口を付けて茶を飲むこと、刺身や何かを盛り付けて食卓に並べることで初めてその作品は完成するのである。

 

工芸家が作るのは茶碗や皿ではなく、使用者の生活空間なのだと言い換えても良い。大体において職人というのは「皿を購入した人の幸せ」ではなく「この皿で食事をした人の幸せ」を考えてものを作る。この皿に盛ったおかずは他のどんな皿に盛るより輝いて見えるだろう。私の茶碗で持て成されれば、自分が特別な人間のように思えるだろう。

 

それを「もったいなくて使えない」としてしまうのは、なんとも筋違いというかなんというか、何気ない日々を特別な日々にするチャンスを失っていると言えるのである。

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ただ、それはあくまでも工芸的な見方をした場合である。私個人としては「仕舞い込んで滅多に出てこない」が嫌いではない。むしろ好き、いや大好きかもしれない。

 

世の中に「使わないともったいない」「使えないならいらない」という堅実だがどこか味気ない価値観が蔓延している中で、「使えるのに使わない」という選択をすることの、何と特別で贅沢なことか。それは本来の用途を封じられ、持ち主によって「宝物」という用途を与えられたのだ。家宝を家宝と定めるのは大体大人であろうから、多くの大人にそういう行動をとらせるというそれは、とても価値あるものであることを証明しているとも言えよう。

 

子供の頃は、拾った木の実であるとか小石であるとかガラスのかけらであるとか、そういうものを誰もが宝物にできた。そこに使えるか使えないかなんて全く関係がなかった。

 

ただ、多くの大人はなぜかそれができない。ガラクタは処分し、使えないものは購入を諦め、道端に落ちているものは拾わない。そういう人間になってしまった者たちに、用途があるにも関わらず、使わずにしまいこませることに成功するとは。故に、私は「使わない家宝」に惜しみない賛辞を贈りたいのである。