森のなかの標本室

不思議な標本を作るアートユニット「飴色団栗研究室」にまつわるちょっとしたおはなし。毎週金曜日夜9時ごろ更新。

粒飴

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粒飴、英名をCantiny という。

飴団栗と近い種で、しかし飴団栗よりもずっと小さい、小指の爪の先ほどの大きさの実がなる。

 

現在この粒飴の木は「森」に一本しか発見されていない。非常に珍しいように思えるが、実は飴団栗の仲間にはこのようなものが多い。実の形状、帽子の形、葉の色など様々なのである。その大半が纏めて「飴団栗」と呼ばれてしまっているために、分類を見直している途中である。

 

また春先に発見された、樫の木の仲間にごく稀に実る「琥珀果」との関連性も分かってきている。今まで我々が研究してきた飴団栗は特別な「森」にしか生えないものと思われていたが、自宅の窓から見えるような身近な森にも存在する可能性が見出されたのだ。

 

しかしながら、特別な森とは何だろうか。以前も似たようなことを述べたが、特別とは、見慣れていないということではないだろうか。我々は未知のものにロマンを感じるが、その未知とは人類にとっての未知ではなく、自分にとっての未知に感じるものではないだろうか。

 

即ち、自分にとっては見慣れたものでも、他者にとってはロマンあふれる未知であるかもしれない。自分にとっては身近な森でも、誰かにとっては見たことのない美しい森であるかもしれない。巨木の森で暮らす人々にとって、きっと日本の森はとても小さく可愛らしい木々が生い茂る、妖精の作った森のように思えるだろう。鮮やかな花や果実ばかりの南の森で育った人は、庭の草花の繊細な造形と色合いに感嘆するだろう。

 

「身近な場所」に面白いもの、不思議なものなどないというのは先入観に過ぎない。そう思えば、毎日目にする「つまらない」ものにも、ロマンを見出せるのではないだろうか。

 

粒飴も飴団栗も風変わりで可愛らしい植物に思えるが、それは決してタンポポやドングリやリンゴよりも魅力的だということではないのだ。

 

先週の記事と同じである。心をすっきりと空っぽにして、目の前にある自然に、あなたにとっての本当の美しさを見出してほしい。

 

お分かりだろうと思うが、不思議に見えるものも見慣れないだけで実際は大したことない、という話ではない。考え方ひとつで、身の回りの全てが新鮮で美しく思える、そういう話である。初めて見たものを面白がって拾い集めるのは勿論大切なことだが、例えば見慣れたリンゴの種の存在にも感動し、大切に引き出しに仕舞えるような心があれば、きっと世の中は今の何倍にも楽しくなるだろう。

 

今週読んだ本:『日本の神様 解剖図鑑』平藤喜久子


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日本の主要な神様について、一人ひとりイラスト付きで解説されています。絵が多いので文字数は少なめですが、文章がとても綺麗にまとめられているので、情報量は決して少なくありません。絵柄も堅苦しくなく、かといってデフォルメも強くなく、品の良い感じで手に取りやすいです。帯には「最強の開運を!」とか書いてありますが、神道を信仰していない私が読んでも雑学としてとても楽しめました。 この「解剖図鑑」シリーズは他にも種類があるようなので、今度探してみようと思います。